2つの智慧
思惟智
名色を無常、苦、無我の三特相(以下参照)で思惟する智慧のこと。この智慧を育てるために次の4つの思惟法があります。聚思惟法
過去、現在、未来などを考慮せずに、すべての色蘊、受蘊などそれぞれの蘊を一まとめにして思惟する方法です。具体的には三特相を参照してください。時思惟法
過去生に生じた色蘊、現在生に生じた色蘊、未来生に生じた色蘊など時間によって区別して思惟する方法です。例えば、「過去生に生じた色蘊は、その生においてすでに滅していて、この現在生には存在しない。だから無常、苦、無我である。」と思惟します。他の受蘊、想蘊、行蘊、識蘊においても同様に思惟します。
相続思惟法
一つの生を、冷色相続、熱色相続とを区別して思惟する方法です。例えば、「冷色相続は熱色相続まで存在しない。だから無常、苦、無我である。」と思惟します。
刹那思惟法
さらに、一つの色相続・心相続を、生住滅という刹那に区別して思惟する方法が刹那思惟法です。例えば、
「過去の刹那に生じた色蘊は、過去の刹那にすでに滅していて現在刹那まで存在しない。だから無常、苦、無我である。」
「過去有分の刹那に生じた心心所は過去有分の刹那にすでに眼知っていて、有分動揺まで存在しない。だから無常、苦、無我である。」
などと思惟します。
上から順番に思惟方法が細かく精密になっていくわけですね。
生滅智
名色の生滅を明確に随観する智慧のこと。この智慧を育てるには次の2つの随観法があります。縁随観法
思惟智を完成した修行者が、名色を縁に関して随観するのが縁随観法です。例えば色蘊を随観する場合、「無明が生じることによって色が生じ、無明が滅することで色が滅する」のようにします。
その他、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊においても同様に随観します。
刹那随観法
縁随観法によって、名色の生滅を繰り返し随観すると、生刹那、滅刹那ごとの生滅が明瞭になります。このときに、縁を考えずに、その刹那だけに注意して随観するのが刹那随観法です。ここまで来ると刹那の生滅が明瞭になり、そのことによって生じる光明・喜などの汚染が観を妨害します(観の汚染は以下参照)。悟りに達するためには観の汚染に屈さずに修習を継続する必要があります。
三特相
三特相(三相)とは、名色における次の3つの性質のことです。無常
何かを縁として生じたものは、滅の刹那には滅します。このように名色の滅を観察することで、名色は常ではなく、無常であることが明らかになります。苦
身体を構成する色蘊は必ず滅するものであり、病に冒されるものであり、それらは避けることができません。このように名色に対して怖れを見出すことで、名色が楽ではなく苦であることが明らかになります。無我
名色には我という実態がないことです。名色はあくまでお互いの相関関係で成り立っているだけで、絶対的な我が支配しているわけではありません。つまり、名色は無我であるためにコントロールできず変化してしまうのであり(無常)、変化するゆえに苦しみなのです。というのも、無常とは苦しむまいと思っても苦しみ、失うまいと思っても失うことを意味します。
観の汚染
観の修習が進むにしたがって、修習を妨げる渇愛などの原因にになる10の法が生じます。要するに悟りまでの道中の魅惑的な誘惑です。この誘惑に負けて道草を食うと悟りに達しなくなってしまうということです。これら誘惑の法を観の汚染と呼びます。具体的には以下の通りです。
光明
観の修習が進むと、修習によって生まれた観心を縁として、さらに心生色が生じます。この心生色は光を発するために光明と呼ばれます。喜
観心に相応する喜(ピーティ)心所です。この心所が強くなることで観の修行者は強い喜びを感じるようになります。軽安
観心に相応する、身軽安・心軽安です。観の修習によって軽安のはたらきが強くなると修行者の身体と心はとても安穏を感じます。確信
観心に相応する信心所です。策励
観心に相応する精進心所です。楽
観心に相応する受心所の楽受です。智
観心に相応する慧根心所です。安住
観心に相応する念心所です。捨
観心に相応する中捨心所です。微欲
光明などを所縁とする観の微欲です。修行者の智が劣っていると、光明などが生じた場合「私は未だかつてこのような光明が生じたことがなかった。私は確かに道果を得た」と勘違いを引き起こすばかりか、その光明などに対する渇愛・慢・我見などが生じる原因になります。