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出世間心の分け方

出世間心は
  • 預流道・果 の2つ
  • 一来道・果 の2つ
  • 不還道・果 の2つ
  • 阿羅漢道・果 の2つ
で8つに分類されます。

しかし、色界禅定に入っている状態でヴィパッサナー瞑想を実践した場合、それぞれの色界禅のレベルに応じて出世間心が生まれることになります。

例えば、

色界・第二禅の状態でヴィパッサナー瞑想を行って、初めて悟りに入ったとします。このときの心は預流道の色界・第二禅ということになります。

色界禅定は、初禅~第五禅までの5段階です。

つまり、道・果の8つの心と、色界禅の5つの心が対応して、8×5=40種類の出世間心が生まれる可能性があります。

ちなみに、ヴィパッサナー瞑想は息の出入りなど身体に起こる生滅変化を観察するのが基本です。

そして、物質と心の無常を悟るわけです。ですので、物質が存在しない無色界ではヴィパッサナー瞑想ができません。

そのため、無色界心と出世間心が対応する事はないわけです。
  • 簡単に分けるときは、色界善心を考えず8種類とします。
  • 詳細に分けるときは、色界善心を考えて40種類とします。
またヴィパッサナー瞑想で悟るときは非常に集中力も高まっているため、少なくとも色界の初禅に達するというのが通説です。

言い換えると、悟るときは必ず色界禅のいずれかの心で悟るとも言えます。色界禅以上の集中力がないと、ものごとの変化消滅を如実に観察できないわけです。

阿羅漢果

阿羅漢道で、煩悩がすべて取り除かれます。

煩悩がなくなるという事は、阿羅漢の人が瞑想から出て、日常生活をおくったとしても不善心はもう生まれようがないという事です。

例えば、一度ストーブで火傷したことがある人なら、もう二度と「ストーブを触ってみよう」とは思わないはずです。むしろ、ストーブを見たとたん「危険!」と思うはずです。

でも、子供はそんなこと知りませんから、平気でストーブを触って火傷するのです。

同じように、阿羅漢は不善心で生きることがいかに自滅行為であるかを体験的に理解しています。だから、もう絶対に不善心は生まれません。

さらに、阿羅漢果になると、これまで生まれていた
  • 大善心
  • 色界善心
  • 無色界善心
といったよい心が
  • 大唯作心
  • 色界唯作心
  • 無色界唯作心
に変わります。唯作心、つまりはたらきだけの結果を生まない心に変わるという事ですね。このように、すべての煩悩を取り除いた境地を涅槃(有余涅槃)と呼びます。

涅槃こそが仏教がめざすゴールであり、究極の幸福であると締めくくられます。

阿羅漢道

阿羅漢道では、残りすべての煩悩が取り除かれます。

具体的には
  • 色貪(貪根心の要素)
  • 無色貪(貪根心の要素)
  • 慢(貪根心の要素)
  • 掉挙(痴根心の要素)
  • 無明(痴根心の要素)
瞋根心の要素は不還道でとりのぞかれているので、もう登場しません。これらがすべて取り除かれることで、不善心の根っこがなくなります。

不還果

不還道で
  • 怒り
  • 一般的な欲
の2つの煩悩を取り除きました。

そこで不還果に悟った人が、瞑想を出て日常生活しても、それらに相応する不善心はもう生まれる事はありません。

つまり、
  • 貪根心
    • 喜倶・悪見相応・無行
    • 喜倶・悪見相応・有行
    • 喜倶・悪見不相応・無行
    • 喜倶・悪見不相応・有行
    • 捨倶・悪見相応・無行
    • 捨倶・悪見相応・有行
    • 捨倶・悪見不相応・無行
    • 捨倶・悪見不相応・有行
  • 瞋根心
    • 憂倶・瞋恚相応・無行
    • 憂倶・瞋恚相応・有行
  • 痴根心
    • 捨倶・疑相応
    • 捨倶・掉挙(じょうこ)相応
不善心の種類の上では、瞋根心の2つが消えて残り5つとなります。

不還果では欲もほとんどなくなっているのですが、色界・無色界に生まれ変わりたいというかすかな生存欲が残っています。

そのため、種類の上では貪根心がまだ残っているわけです。

不還道

一来果からさらに悟りの瞑想が進むと不還道に達します。

不還とはもう帰ってこないという意味です。つまり、もう人間界に戻ってこない事を意味しています。

もし生まれ変わる場合でも、色界か無色界の次元の高い生命として生まれ変わります。

ここで取り除かれるものは、
  • 怒り
  • 一般的な欲
の2種類です。

怒りとは瞋根心そのものです。
ちょっとした怒りもこの時点ですべてとりのぞかれます。

一般的な欲とは、
  • おいしいものを食べたい
  • ステキな人と一緒にいたい
などという、五感を喜ばせる欲はすべてとりのぞかれます。

では、どんな欲か残るかというと、色界・無色界に生まれ変わりたいという高いレベルの生存欲だけが残ります。

一来果

一来道では、何か新しく不善の煩悩を取り除く事はありませんでした。

そのため一来果に悟った人が、瞑想をやめて、日常生活を送るときに生まれる不善心は次のとおりです。
  • 貪根心
    • 喜倶・悪見相応・無行
    • 喜倶・悪見相応・有行
    • 喜倶・悪見不相応・無行
    • 喜倶・悪見不相応・有行
    • 捨倶・悪見相応・無行
    • 捨倶・悪見相応・有行
    • 捨倶・悪見不相応・無行
    • 捨倶・悪見不相応・有行
  • 瞋根心
    • 憂倶・瞋恚相応・無行
    • 憂倶・瞋恚相応・有行
  • 痴根心
    • 捨倶・疑相応
    • 捨倶・掉挙(じょうこ)相応
横線で消したところが、もう二度と生まれない心なので、残りは7つですね。種類の上では預流果の時と同じです。

一来道

さて、預流道、預流果と来まして、次のステージは一来道です。

一来とは一回だけ帰ってくるという意味で、一度だけ生まれ変わる事を指します。その間に阿羅漢に達してしまうという事を暗に意味しています。

一来道では、何を取り除くのかというと、実は何か新しく取り除くものはありません。

ただ、欲や怒りといった煩悩のエネルギーが預流果のときと比べてガクンと弱くなります。

預流果

預流果とは預流道の結果として生じる心のことです。

預流果の時点ではもう、すでに三結、つまり
  • 有身見
  • 疑
  • 戒禁取
は取り除かれて、今後一切生まれる事はありません。

引き抜かれたタンポポからは、もう二度と新しいタンポポが生まれないように。

上の3つは煩悩ですから、不善心の要素になっています。

もう一度不善心を見てみましょう。
  • 貪根心
    • 喜倶・悪見相応・無行
    • 喜倶・悪見相応・有行
    • 喜倶・悪見不相応・無行
    • 喜倶・悪見不相応・有行
    • 捨倶・悪見相応・無行
    • 捨倶・悪見相応・有行
    • 捨倶・悪見不相応・無行
    • 捨倶・悪見不相応・有行
  • 瞋根心
    • 憂倶・瞋恚相応・無行
    • 憂倶・瞋恚相応・有行
  • 痴根心
    • 捨倶・疑相応
    • 捨倶・掉挙(じょうこ)相応
この12不善心のうち、赤字の5つの不善心が、今回の3つの煩悩と対応しています。

つまり、悪見相応とは間違った見解があるという意味で、有身見と戒禁取の事をさしています。

疑相応には、言葉のとおり疑が対応しています。つまり、預流果に悟った人でも不善心は生じます。

ただ、そのエネルギーはとても弱く、かつ上の赤字以外の7つの不善心しか生じないという事ですね。

特徴

預流果に悟るという事は、悟りのベルトコンベアにのったようなものです。煩悩は残っていますが、心が悟りへ向いているので、自動的に阿羅漢へ向かいます。

また、預流果の人は以後7回までしか生まれ変わりません。なぜならその間に悟りがすすんで、阿羅漢になるからです。

また生まれ変わる場所も、人間界か天界(両方とも欲界)などの悟りの修行に適した場所に生まれ変わります。もちろん地獄界などの低次元な場所とはもう無縁です。

預流果は体験的に万物の無常を理解していますが、それでも煩悩はまだ残っています。まわりの刺激によって、貪根心や瞋根心が生まれることもあるわけです。

ただ、人を殺したいという感情や、因果法則を否定したりという無知な心はもう生まれる事はありません。

預流道

預流とは悟りの第一段階目。
道とは、煩悩を取り除くはたらきのことです。

預流をそのまま訳すと、流れに預かったのような意味になります。

私たちは生まれ変わりを延々とくり返してきました。

それは、まるで山のふもとをグルグル、グルグルまわっているようなものです。あるときは高次元の生命として生まれ、あるときは低次元の生命として生きたかもしれません。

ただ、いずれにしても延々と無限ループをまわっている事に変わりはないんですね。そこから抜け出すためには、悟りというゴールを目指すしかありません。

そして、悟りに向かう道に入る最初の心が預流道心なのです。

預流道心で取り除かれる煩悩は3つあります。
  • 有身見(うしんけん)
  • 疑(ぎ)
  • 戒禁取(かいごんじゅ)
また、預流道に一度入った人は、最多でも後7回までしか欲界に生まれ変わらないとされています。

つまり、7回以内に最高位の阿羅漢に到達するという意味です。

有身見

預流道で取り除かれる一つ目の煩悩は、有身見です。

有身見とは、不変の自我があるという間違った見解の事です。なぜ間違っているかというと、世の中すべての物質・心は常に変化する性質のものだからです。

例えば、A川という川があったとします。

このA川について、『これこそA川である』という核になる部分は存在するでしょうか!?

どこを探しても、ただ水の流れがあるだけです。そして、A川はしばらく流れていくと、途中でB川と呼び名が変わったりします。

つまり、A川もB川も一つの流れの事で、A川を支配している核もなければ、B川を支配している核もないわけです。

私たちも同じです。

ただ肉体という物質の流れと心の流れがあるだけで、それを私と呼んでいるにすぎません。

自分をコントロールする絶対的な自我がない証拠に、
  • 私たちは老化を止める事はできません
  • 病気を避ける事はできません
  • 死を避ける事はできません
預流道では、この事を体験的に理解し、有身見を取り除けます。

疑

2つ目の煩悩は疑です。

疑とは、文字のごとく疑いという意味ですが、具体的に3つの疑いがあります。
  • 過去・現在・未来に対する疑い
  • 因果法則に対する疑い
  • 仏道・修行方法に対する疑い
いずれにしても、よく調べもせず適当に判断してしまうことをまとめて疑と言います。

例えば
  • 怠けていてもいずれ幸せがやってくるさ
  • 自分はがんばってもどうせダメなんだ
  • 私は将来お姫様になるでしょう
  • 今好き放題やっても死んだらリセットだ
なんてのは、すべて疑というわけです。どれも、真実をよく調べもせず(無視して)妄想で判断していることが分かりますね。

戒禁取(かいごんじゅ)

預流道で取り除ける、3つめの煩悩が戒禁取(かいごんじゅ)です。
  • 戒とは戒め。
  • 禁とは禁制、つまりルール(儀式)
  • 取とは取著(執着)
の事で、間違った戒めや儀式に執着する事という意味です。

何の根拠もなくありがたがられている儀式とかありますよね。それには意味がないと、仏教では説明しています。

例えば、いけにえの儀式で牛を殺すとします。そして、『その牛の命を神にささげる事で、私たち人間にお恵みを!』とやったりするわけです。

しかし、この場合、なぜ牛を殺してささげることが人間に恵みをもたらすのか、理性的な根拠がまるでないのです。

仏教では事実を見ます。事実を見たときに、その儀式は単なる殺生なのです。悪業をつくったのです。これは地球が丸というのと同じくらいはっきりした事実です。

このように、意味のない・根拠のない戒め・儀式に執着する事を戒禁取といいます。

まとめ

さて、預流道で取り除かれる3つの煩悩を見てきました。
  • 有身見
  • 疑
  • 戒禁取
これらは三結とも呼ばれています。

結とは結生の意味で、次に生をつくる原因になる煩悩という意味です。

そして、これらをまとめると、

事実をすみずみまで確認してから判断しなさいよ。

という事になるのではないでしょうか。
(私の勝手な判断ですが)

例えば、100個の玉が入った箱があります。その箱には手を入れる穴だけがあって中は見えません。

あなたは、その穴に手を入れて、3つ玉を取り出しました。その玉の色はぜんぶ赤でした。

そのときあなたはどう思いますか?

ああこの箱には100個の赤い玉が入っているんだ

と思いませんか?

慎重な人だったら50個くらい調べて判断します。

でも、仏教はそれでもダメだと言います。

仏教は

すべての玉をきちんとすみずみ調べなさい!
そうしないと真実は分かりませんよ!

と言うんですね。これも理性的に見るとあたり前ですね。

出世間心

さて、心の最後の分類になります。

出世間をそのまま訳すと、世間を出るとなります。

ここで言う世間とは、生命の次元みたいな意味です。つまり、生命の次元を抜け出るという意味になります。

まとめると、出世間心とは輪廻転生を抜け出る心=悟りの心という事です。

これまで、欲界、色界、無色界の心に触れてきました。

無色界心はレベルの高い心ですが、それでも業(よい業ですが)をつくり、死ぬとまた輪廻転生をくり返します。

仏教では、生きる事は苦しみであると説明しています。なぜなら、思い通りにならないからです。

具体的に次のような8つの苦しみがあると説いています。
  • 生・・・生まれること
  • 老・・・老いること
  • 病・・・病気になること
  • 死・・・死ぬこと
  • 愛別離苦・・・愛するものとの別れ
  • 怨憎会苦・・・嫌なものとの出会い
  • 求不得苦・・・求めても得られないこと
  • 五取蘊苦・・・ようするに執着はすべて苦
私たちの悩みは必ずこのどれかに分類されます。

そして、これらは生きている限り必ずついて回る苦しみなのです。私たちは何とかこれらから逃れたいのです。

だからアンチエイジングがはやったり、病院はいつまでも大盛況なのですね。

でも、そうやって必死にもがいても、生きている限り8つの苦しみからは逃れる事はできません。

なぜなら、生命は生きている限り業をつくり、その業が原因でまた生まれ、生まれ変わりの無限ループからは抜け出せないからです。

そこでお釈迦様が見つけた解決策が、生命をのりこえること、つまり悟りでした。

まとめると
  • 欲界、色界、無色界の心は生命の心
  • 出世間心は生命をのりこえた心
という位置づけになります。

道心

出世間心(悟りの心)には、道心、果心の2種類あります。

果とは結果のことであり、道とはそこへいたる道という意味です。

道をもう少し説明しますと、煩悩を取り除くはたらきという意味があります。

例えば、一本のタンポポをイメージしてください。

花が咲き、綿毛になり、種を飛ばし、また新しいタンポポが生まれます。でも、もし綿毛になる前に抜いてしまったらどうなるでしょう?

もちろん次のタンポポは生えてきませんね。

同じように、煩悩を根こそぎ取り除くのが道心であり、道心は引き抜く一瞬しか生まれないのが特徴です。

道心にはつぎの8つの要素が対応しています。
  • 正見・・・正しい思い込み(智慧のこと)
  • 正思惟・・・正しい思考
  • 正語・・・正しい言葉
  • 正業・・・正しいふるまい
  • 正命・・・正しい仕事
  • 正精進・・・正しい努力
  • 正念・・・正しい気づき
  • 正定・・・正しい集中
これらは、すべて心所(心の要素)であり、これら8つを八正道といいます。

補足ですが、八正道にも2種類あります。
  • 私たち一般の人が起こす八正道
  • 悟りにいたる聖八正道
ですね。

私たちは、『正しく考えよう』とか『正しい言葉を使おう』とか努力します。これも、もちろん素晴らしいことですし八正道に違いはありません。

しかし、だからと言って悟れるわけではないのです。

悟るためには聖八正道が必要です。

聖八正道が生まれている修行者には、もはや『正しく考えよう』とか『正しい言葉を使おう』とかいうエネルギーすら存在しなくなっています。

あたり前のように正しい言葉を使い、あたり前のように正しい努力をするわけですね。つまり、8つに反することをしようという気持ちすら起こらない状態なのです。

でも私たちはつい8つに反する事をしてしまいますね^^;

とはいえ、八正道は人生を大きく向上してくれることに間違いはありませんから、取り組むことにはとても意味があります。

果心

果心とは、煩悩が取り除かれた後の状態を体験するというようなはたらきです。

果心は、道心の結果の心でもありますから、
  • 道心は善心
  • 果心は異熟心
という表現も間違いではありません。

果心は煩悩が取り除かれた後の状態を体験するはたらきですから一瞬ではありません。

例えばタンポポを引き抜くのは一瞬ですが、引き抜いた後の状態はずっと続きますよね!?

同じように、果心も瞑想を行うことで長く体験する事ができます。

さて、ここで『悟った人はずっと出世間心がはたらいているの?』という疑問がわきますね?

実は、出世間心が生まれるのは悟りの瞑想(ヴィパッサナー瞑想)をしているときだけなのです。

悟った人も通常は大善心で生きています。(最高に悟った人は唯作心ですが)

なぜなら、悟った人も人間としての体がある以上、ご飯を食べたり、寝たり、人に説法した入りするわけですね。

つまり日常生活では五感をたよりにしないといけないわけです。そのときは大善心がはたらいています。

悟りの段階

悟りにも段階があります。

次の4段階です。
  1. 預流
  2. 一来
  3. 不還
  4. 阿羅漢
預流から順番に阿羅漢までレベルが上がっていくイメージですね。

そして、レベルが上がるたびに、煩悩をザクザク取り除いていき、最後の阿羅漢ではすべての煩悩が取り除かれます。

ここで言う煩悩とは不善心の要素のことだと思っていただければ結構です。

流れで言うと

預流道 → 預流果 → 一来道 → 一来果 → ・・・

という風な感じですね。詳しくは後ほどご説明します。

ヴィパッサナー瞑想

出世間心をつくるためには特別なトレーニング(瞑想)が必要になります。

その瞑想がヴィパッサナー瞑想です。

観察瞑想とか気づきの瞑想とか表現される場合もありますが、とにかく一瞬一瞬の身体や心の状態を観察するわけです。

まるで体が自分とは関係ない一つの物体だとしたときに(実際そうなのですが)、そこに起こる変化をつぶさに観察していきます。

方法は主に3つで、
  • 座る
  • 立つ
  • 歩く
があります。

座る瞑想だと、座禅を組み身体を静止させて、息の出入りを観察します。

例えば、

ふくらみ、ふくらみ、縮み、縮み、ふくらみ、縮み、縮み、ふくらみ・・・・

のようなイメージですね。起こっていることあるがままを実況中継します。詳しくはまた別でご説明します。