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無因心まとめ

さて、無因心が終わりました。

無因とは因がないという意味です。

因とは普通、原因という意味で使われますが、ここでの意味は違います。

ここでの因は、根っこというような意味です。

この因は善・悪、それぞれ3つずつあります。
悪因 善因
貪(欲)
瞋(怒り)
痴(無知)
不貪(欲ばらない)
不瞋(怒らない)
不痴(知恵がある)
このどちらの因もふくまれない心を無因心と言いました。

無因心の全体図は以下のとおり。
  • (無因)不善異熟心7つ
    • 捨倶・眼識
    • 捨倶・耳識
    • 捨倶・鼻識
    • 捨倶・舌識
    • 苦倶・身識
    • 捨倶・領受心
    • 捨倶・推度心
  • (無因)善異熟心8つ
    • 捨倶・眼識
    • 捨倶・耳識
    • 捨倶・鼻識
    • 捨倶・舌識
    • 楽倶・身識
    • 捨倶・領受心
    • 捨倶・推度心
    • 喜倶・推度心
  • (無因)唯差心3つ
    • 五門引転心
    • 意門引転心
    • 笑起心

無因唯作心

さて、最後3つ目の無因心が無因唯作心ですね。唯作心とは、ちょっとした働きだけあって、結果をもたらさない心という意味です。

例えるなら、絶対に芽を出さない生命力が弱い種みたいなイメージですね。

実がなって、それがまた種になって・・・
みたいな循環は起こせない弱い心のことです。

唯作心も、無因唯作心と大唯作心の2種類あるので、”無因”をつけて区別します。

この無因唯作心は3つあります。
  1. 捨倶・五門引転心
  2. 捨倶・意門引転心
  3. 喜倶・笑起心

捨倶・五門引転心

まず用語の説明から。

五門とは、5つの情報の入り口という意味です。情報が入るのはどこでしたか?

そうですね。五感(感覚器)です。

例えば、あなたが何か『見た』というとき、まずは対象が眼に触れるところからスタートします。そして、触れた瞬間に眼識が生まれる事は学びましたね。

もし、眼識が生まれなければ、有分心という潜在的な心が流れ続けることになるのですが、眼識が生まれるためには有分心の流れを一旦止めて眼識の流れに切り替える必要があります。

なぜなら、心はその一瞬に一つずつしか生まれない性質があるからです。

このように切り替えるはたらきを引転といいます。

線路のポイント切り替えで、電車の進む方向を切り替えるようなイメージですね。

そして潜在的な有分心の流れを、顕在的な五感による心の流れに切り替える心が五門引転心です。

おなじみ、柿の木の例えを見てみましょう。
  1. 人が柿の木の下で寝ている → 有分心
  2. 熟した柿がボトッと落ちる音がする → 対象が五門に現れる
  3. その人は音がしたので眼を覚ます → 五門引転心
  4. 落ちた柿に意識を向ける → 眼識(耳・鼻・舌・身)
  5. 柿に手をのばしてとる → 領受心
  6. 熟しているか調べる → 推度心
  7. 熟していると判断する → 確定心
  8. 食べる → 速行
  9. 口の中の柿を唾液と一緒に飲み込む → 被所縁
  10. また眠る → 有分心
柿を認識するためには、睡眠の流れを切り替えて目を覚まさなければいけませんよね。

もちろん、これは私たちには自覚できないほんの些細な心なので、喜びも苦しみもともないません。よって、捨倶となります。

捨倶・意門引転心

これも引転心です。五門引転心と同じように、仏教では心にも門があると解説します。

この、心の門を意門といいます。ちなみに意門とは有分心のことです。

例えば、妄想してイライラする場合、五感からは何も情報は入ってきていません。この場合、イメージ(法)が意門に触れて、イライラが生じると解釈されます。

つまり、意門引転心とは、潜在的な心の流れである有分心の流れを止めて、意識を生起させるはたらきをする心です。

このように、五感からの情報以外の門(つまり意門)からの情報で、意識が生起するときに意門引転心が活躍します。

笑起心(しょうきしん)

笑起心とは最高まで悟った人が笑うときの心です。

そもそも悟りとは、完全に不善心(悪い心)を0にした状態のことです。

不善心がないとは、欲や怒りが全くないという事です。自分とまわりの人や他の生き物との区別もなく、みんな平等な生命体の一つと見えます。

もちろんそんな心理状態をつくるには、厳しいトレーニングを続けなければいけません。金メダルをとるために何年も筋トレにはげむのと同じことです。

では、あなたと金メダリストの体は同じでしょうか??

もし、同じだと感じたとしたら、あなたも金メダリストではないですか?^^

たいていは、全く違います。なぜなら彼らは特別なトレーニングをしてきたからです。

同じように、一般の人と悟った人の心理状態もまったく違います。彼らが笑うとき、一般の人のように欲の心境で笑ったしません。

彼らは笑起心という心で笑うのです。

まとめ

無因唯作心は、はたらきだけがあって結果を生まない弱い心でした。

無因唯作心は以下の3つです。
  • 五門引転心・・・五感で情報を受け取る前に準備する心
  • 意門引転心・・・脳で情報を受け取る前に準備する心
  • 笑起心・・・悟った人が笑うときの心
でしたね。

笑起心は悟らないと確認できませんが、他2つは一般の人にも現れる心です。でも、エネルギーが弱い心なので、私たちは普段感じる事ができません。

たぶん、医療機器とかで調べたら、何かしら信号を見つけられると思いますが^^;

無因善異熟心

好ましくないものを見たり・聞いたりしたときに生まれる心が(無因)不善異熟心でした。

逆に、好ましいものに触れて生まれる心が無因善異熟心です。

内容は不善異熟心とよく似ています。
  • (無因)善異熟心・捨具・眼識
  • (無因)善異熟心・捨具・耳識
  • (無因)善異熟心・捨具・鼻識
  • (無因)善異熟心・捨具・舌識
  • (無因)善異熟心・楽具・身識
  • (無因)善異熟心・捨具・領受心
  • (無因)善異熟心・喜具・推度心
  • (無因)善異熟心・捨具・推度心
推度心が一個ふえていますね^^

身識も不善異熟心のときは苦倶でしたが、無因善異熟心では楽倶になっています。

ちなみに、不善異熟心は無因心しかありませんので、不善異熟心と言った時点で無因心のものと分かります。

ただ、善異熟心の場合、無因善異熟心、大善異熟心の2種類があります。そのため”無因”善異熟心と”無因”をつけて区別します。

さて、では順番に見ていきましょう!

捨倶・眼識(耳識、鼻識、舌識)

過去につくった善心の結果として生まれる、好ましいものを見る瞬間の心が(無因)善異熟心・捨倶・眼識です。

ここでいう好ましいかどうかは個人の好みの事ではありません。

生命体としてそれが好ましいかどうかで判断します。

例えば、生ゴミを見る事は好ましくありません。不衛生で汚いですからね。

でも、優しい顔をした人を見るのは好ましいと判断します。生命体を幸せな気持ちにさせるキッカケになるからです。

流れとしてはこんな感じです。
  1. 好ましい対象が眼に触れる(捨倶・眼識)
  2. その情報を脳が受け取る
  3. それが何かを脳が調べる
  4. それが何かを脳が決定する
  5. 脳が決定した事に対して、妄想する
  6. うれしい気分になる
うれしく感じるのは6番目の段階ですので、眼に情報が触れた直後は喜びも苦しみもありません。つまり、捨倶という事です。

耳識、鼻識、舌識に関しても同じで、
  • 好ましいものを聞く瞬間の心が耳識
  • 好ましいものを嗅ぐ瞬間の心が鼻識
  • 好ましいものを味わう瞬間の心が舌識
という分類になります。

楽倶・身識

さて、次は身識(触覚)です。身識だけ楽倶となっていますね。

ここでも流れを見てみましょう。
  1. 好ましい対象が体に触れる(楽倶・身識)
  2. その情報を脳が受け取る
  3. それが何かを脳が調べる
  4. それが何かを脳が決定する
  5. 脳が決定した事に対して、妄想する
  6. うれしい気分になる
眼識の場合、眼に対象が触れた瞬間は、痛いとか気持ちいいとかいう感覚は何も感じませんでした。

なぜなら眼に触れるものは光だからです。
  • 太陽の光が机に当たる
  • その光が反射する
  • 反射した光を眼がキャッチする
事で机が見えるのですね。しかし身識の場合、対象が触れた瞬間に、痛みとか気持ちよさを感じます。

科学的に言うと、この感覚は痛点で生まれるわけです。そして痛点で生まれるこの感覚は、自分の意思とは関係なしに、自動反応のように生まれます。

今回は、触れる対象が好ましいものですので、痛みや苦しみをともないません。よって、楽倶となるわけです。

捨倶・領受心

不善異熟心でも登場しましたが、領受心とは脳が情報を受け取るというはたらきでした。

無因善異熟心でも同じです。対象が、好ましいか好ましくないかの差ですね。

流れを確認しましょう。
  1. 好ましい対象が眼に触れる
  2. その情報を脳が受け取る(捨倶・領受心)
  3. それが何かを脳が調べる
  4. それが何かを脳が決定する
  5. 脳が決定した事に対して、妄想する
  6. うれしい気分になる
情報を脳が受け取るだけなので、これも不善異熟心のときと同じで捨倶になります。

推度心(捨倶・喜倶)

無因善異熟心の推度心は、不善異熟心の場合と同じく、情報を調べるはたらきがあります。

また流れを見てみましょう。
  1. 好ましい対象が眼に触れる
  2. その情報を脳が受け取る
  3. それが何かを脳が調べる(推度心)
  4. それが何かを脳が決定する
  5. 脳が決定した事に対して、妄想する
  6. うれしい気分になる
領受心とは、役所の受付のようなイメージで、郵便やさんから封筒を受け取るわけです。

でも、受付が封筒をビリビリやぶいて、中身を確認する事はありませんね。

じゃあどうするかというと、担当にその封筒を渡すのです。そしてその担当が封筒をやぶって中を確認します。

この封筒の中身を確認する担当が、推度心です。

ただ、不善異熟心の場合と違うのは、中身を調べるときの感覚が捨倶のときと、喜倶のときの2パターンある事です。

『これは何だろな?』と担当が封筒を開けたときに、
  • 中身が単なる広告だったら、『ふ~ん』くらいにしか思いません。(捨倶)
  • 中身が愛情たっぷりの手紙だったら、うれしくなります。(喜倶)
おさらいですが、無因善異熟心は善心の結果として生まれる心なので、好ましい情報を受け取るというのが前提です。

まとめ

無因善異熟心とは、以前につくった善心(よい心)の結果、好ましいものに触れて生まれる心の事でした。

好ましいとは、個人的な好みではなく、生命体として好ましいかどうかで判断します。

例えば、不衛生な生ゴミは好ましくありませんね。逆に、心が癒される小川のせせらぎは好ましいでしょう。

具体的には8つありました。
  1. 好ましいものを見た瞬間に生まれる心が、(無因)善異熟心・捨倶・眼識
  2. 好ましいものを聞いた瞬間に生まれる心が、(無因)善異熟心・捨倶・耳識
  3. 好ましいものを嗅いだ瞬間に生まれる心が、(無因)善異熟心・捨倶・鼻識
  4. 好ましいものを味わった瞬間に生まれる心が、(無因)善異熟心・捨倶・舌識
  5. 好ましいものに触れた瞬間に生まれる心が、(無因)善異熟心・楽倶・身識
  6. それらの情報を脳で受け取る心が、(無因)善異熟心・捨倶・領受心
  7. 受け取った情報を調べる心が、(無因)善異熟心・捨倶・推度心
  8. または、(無因)善異熟心・喜倶・推度心
という分類でしたね。

ザックリ説明すると、五感から脳へ好ましい情報を伝達する心の集まりという表現になるかもしれません。

以上で、(無因)善異熟心8つは終わりです。

不善異熟心

仏教では、心は消えてまた生まれて、波のように変化しながら繰り返すと説明します。

例えば、火をイメージしてください。

何か燃えているとき、そこに”火”という変わらないものがあるわけではありません。

火がモノを燃やし、その時に出た熱がまた次の火をつくり、それが繰り返されているわけです。

前の火は、次の火に熱のエネルギーを受け渡して消えます。そのエネルギーの受け渡しの連続した現象を”火”というわけです。

同じように、心もエネルギーを、次の心に渡しながら、消えたり生れたりを激しく繰り返しています。

この流れは、体が滅んでも消える事はありません。またすぐに別の物体に依存して、生命体が生まれます。(輪廻転生)

今、あなたが生きています。

あなたの身体は生まれてから何十年かたっているかもしれません。でも、そのはるか昔から心のエネルギーは続いてきました。

それが、今生で今の肉体に依存して、あなたという生命が生まれたのです。

このようにエネルギーは続いていますから、昔やったことにふさわしい結果を将来受け取る事になります。

それを異熟といいます。

あなたが今感じている事は、以前の行いの結果というわけですね。

そして、昔不善心をつくった結果、今感じている心があるとすれば、それを不善異熟心といいます。

不善異熟心は7つあります。
  • 捨倶、眼識
  • 捨倶、耳識
  • 捨倶、鼻識
  • 捨倶、舌識
  • 苦倶、身識
  • 捨倶、領受心
  • 捨倶、推度心

捨倶・眼識など

過去に不善心(よくない心)をつくった結果として生まれる、対象を見る瞬間の心が不善異熟心・捨倶・眼識です。

倶とは感覚の事です。

ですから、捨倶とは、苦しみも楽しみもない感覚だと思ってください。

ちなみに喜倶と言えばうれしい感覚。苦倶と言えば苦しい感覚の事です。

なぜ捨倶かというと、何かを見た瞬間は、まだいいとか悪いとか感じていないからです。

例えば生ゴミを見て汚いと思う流れを見てみましょう。
  • 生ゴミを見る(不善異熟心、捨具、眼識)
  • これは生ゴミだと理解する
  • 生ゴミは汚いというイメージが膨らむ
  • 実際に辛くなる
という流れですね。

見た瞬間は、まだ汚いとか辛いとかいう気持ちは生まれていませんね。

ちなみに眼識がないと、私たちはものを見る事ができません。まずは、ものを見るとき『何か見た!』という認識からスタートするからです。

同じように、過去に不善心(よくない心)をつくった結果として、
  • 聞きたくないものを聞く瞬間の心を、不善異熟心・捨具・耳識
  • 嗅ぎたくないものを嗅ぐ瞬間の心を、不善異熟心・捨具・鼻識
  • 味わいたくないものを味わう瞬間の心を、不善異熟心・捨具・舌識
と言います。

苦倶・身識

さて、次は不善異熟心・苦倶・身識です。

身識だけ苦倶になっていますね。他は捨倶だったのに。

例えば、あなたが見たくないものを見たとします。でも、その瞬間は眼に映像が映っただけで、何の苦しみ(痛み)などもありません。

ですが、不善異熟心・身識の場合は、身体に触れたくないものが触れたときに生まれる心ですね。

こんなイメージです。
  • 何かに刺された
  • チクッと痛みを感じる(不善異熟心・苦倶・身識)
  • 蜂に刺されたと思う
  • 気が動転する
  • 動転した心によって、感情的な苦しみが生まれる
実際に事実として受けた感覚は、チクッという痛みだけです。それから後に受ける苦しみは、自分でつくった感情によって二重三重に苦しむわけです。

痛みを感じたときまでは事実ですが、それ以降は自分の主観にすりかわっているのがポイントです。

この例の場合、チクッとした痛みが苦倶というわけですね。まあザックリと苦具とは痛みだと思ってもらっても構いません。

捨倶・領受心

領受心は対象を受け取るはたらきをしています。

これは、ちょっと普通の感覚では理解しにくいかもしれませんね^^;分かりやすくするための例えがあります。

心の働きを人間に例えています。
  1. 人が柿の木の下で寝ている → 有分心
  2. 熟した柿がボトッと落ちる音がする → 対象が五門に現れる
  3. その人は音がしたので眼を覚ます → 五門引転心
  4. 落ちた柿に意識を向ける → 眼識(耳・鼻・舌・身)
  5. 柿に手をのばしてとる → 領受心
  6. 熟しているか調べる → 推度心
  7. 熟していると判断する → 確定心
  8. 食べる → 速行
  9. 口の中の柿を唾液と一緒に飲み込む → 被所縁
  10. また眠る → 有分心
専門用語が山ほど出てきましたが、順番に説明しますので、今は気にしないで下さい。

科学的に言うと、例えば眼識は眼で生まれる『触れた』という感覚です。(アイコニックメモリ)

次にその情報を調べるために、情報を脳で受け取ります。その、脳で情報受け取るというはたらきが領受心のはたらきです。

単に受け取るだけのはたらきなので、喜びや苦しみをともないません。よって捨倶に分類されます。

これは推測ですが、現代脳科学では、五感からの情報は、まず視床という部分がキャッチすることが分かっています。なので、領受心も視床で生まれていると思われます。

捨倶・推度心

推度心は領受心が脳で受け取った情報に対して、『どんな情報だろう?』とその情報を調べるはたらきをします。

もう一度、柿の木の例えを見てみましょう。
  1. 人が柿の木の下で寝ている → 有分心
  2. 熟した柿がボトッと落ちる音がする → 対象が五門に現れる
  3. その人は音がしたので眼を覚ます → 五門引転心
  4. 落ちた柿に意識を向ける → 眼識(耳・鼻・舌・身)
  5. 柿に手をのばしてとる → 領受心
  6. 熟しているか調べる → 推度心
  7. 熟していると判断する → 確定心
  8. 食べる → 速行
  9. 口の中の柿を唾液と一緒に飲み込む → 被所縁
  10. また眠る → 有分心
この例では、落ちた物体に対して、
  • これはどんな果物か?
  • 食べれるのか食べれないのか?
  • くさっていないかどうか?
など調べるはたらきの事ですね。この推度心も何かを調べてる段階なので、喜びも苦しみもともないません。つまり、捨倶になるわけですね。

まとめ

(無因)不善異熟心とは、以前つくった不善心の結果として生まれる心でした。

不善心の結果として生まれる心なので、
  • 見たくないものを見る瞬間の心
  • 聞きたくないものを聞く瞬間の心
  • 嗅ぎたくないものを嗅ぐ瞬間の心
  • 味わいたくないものを味わう瞬間の心
  • 触れたくないものに触れる瞬間の心
  • そしてそれらの情報を受け取る心
  • その後にそれらの情報を調べる心
の事でした。

ちなみに、見たくない・聞きたくないと言っているのは、個人的な好みの事を言っているわけではありません。

私たち生命体にとって好ましくないものという意味です。

例えば、生ゴミや便などの不衛生なものは生命にとって好ましくないので、好ましくないという決め方ですね。

無因心

因と聞くと原因という言葉を思い出しますね。ただ、ここでの因とは原因という意味ではありません。

そもそも、よい心(善心)と悪い心(不善心)はどのように分けるかお話しますね。

難しくありませんよ^^

3つの要素が関係しています。
  • 貪(欲)
  • 瞋(怒り)
  • 痴(無知)
貪の要素が入っていれば貪根心、
瞋の要素が入っていれば瞋根心、
痴の要素が入っていれば痴根心です。

この3種類が悪い心(不善心)でしたね。

逆に
  • 不貪(欲ばらない)
  • 不瞋(怒らない)
  • 不痴(事実をとらえている)
の3つのどれかが含まれればよい心(善心)になります。

この、悪い3要素、よい3要素を因といいます。

因とは木の根っこのようなイメージですね。

木が根をはるとビクともしないように、因がある心は力強いエネルギーをもっています。

そして、悪い因・よい因のどちらも含まれていない心を無因心といいます。

簡単に言うと、よくも悪くもない心といったイメージでしょうか。

因が含まれないので、力はあんまり強くないです。

無因心は3つあります。
  • 不善異熟心
  • 善異熟心
  • 唯作心