預流道

預流とは悟りの第一段階目。
道とは、煩悩を取り除くはたらきのことです。

預流をそのまま訳すと、流れに預かったのような意味になります。

私たちは生まれ変わりを延々とくり返してきました。

それは、まるで山のふもとをグルグル、グルグルまわっているようなものです。あるときは高次元の生命として生まれ、あるときは低次元の生命として生きたかもしれません。

ただ、いずれにしても延々と無限ループをまわっている事に変わりはないんですね。そこから抜け出すためには、悟りというゴールを目指すしかありません。

そして、悟りに向かう道に入る最初の心が預流道心なのです。

預流道心で取り除かれる煩悩は3つあります。
  • 有身見(うしんけん)
  • 疑(ぎ)
  • 戒禁取(かいごんじゅ)
また、預流道に一度入った人は、最多でも後7回までしか欲界に生まれ変わらないとされています。

つまり、7回以内に最高位の阿羅漢に到達するという意味です。

有身見

預流道で取り除かれる一つ目の煩悩は、有身見です。

有身見とは、不変の自我があるという間違った見解の事です。なぜ間違っているかというと、世の中すべての物質・心は常に変化する性質のものだからです。

例えば、A川という川があったとします。

このA川について、『これこそA川である』という核になる部分は存在するでしょうか!?

どこを探しても、ただ水の流れがあるだけです。そして、A川はしばらく流れていくと、途中でB川と呼び名が変わったりします。

つまり、A川もB川も一つの流れの事で、A川を支配している核もなければ、B川を支配している核もないわけです。

私たちも同じです。

ただ肉体という物質の流れと心の流れがあるだけで、それを私と呼んでいるにすぎません。

自分をコントロールする絶対的な自我がない証拠に、
  • 私たちは老化を止める事はできません
  • 病気を避ける事はできません
  • 死を避ける事はできません
預流道では、この事を体験的に理解し、有身見を取り除けます。

2つ目の煩悩はです。

疑とは、文字のごとく疑いという意味ですが、具体的に3つの疑いがあります。
  • 過去・現在・未来に対する疑い
  • 因果法則に対する疑い
  • 仏道・修行方法に対する疑い
いずれにしても、よく調べもせず適当に判断してしまうことをまとめて疑と言います。

例えば
  • 怠けていてもいずれ幸せがやってくるさ
  • 自分はがんばってもどうせダメなんだ
  • 私は将来お姫様になるでしょう
  • 今好き放題やっても死んだらリセットだ
なんてのは、すべて疑というわけです。どれも、真実をよく調べもせず(無視して)妄想で判断していることが分かりますね。

戒禁取(かいごんじゅ)

預流道で取り除ける、3つめの煩悩が戒禁取(かいごんじゅ)です。
  • 戒とは戒め。
  • 禁とは禁制、つまりルール(儀式)
  • 取とは取著(執着)
の事で、間違った戒めや儀式に執着する事という意味です。

何の根拠もなくありがたがられている儀式とかありますよね。それには意味がないと、仏教では説明しています。

例えば、いけにえの儀式で牛を殺すとします。そして、『その牛の命を神にささげる事で、私たち人間にお恵みを!』とやったりするわけです。

しかし、この場合、なぜ牛を殺してささげることが人間に恵みをもたらすのか、理性的な根拠がまるでないのです。

仏教では事実を見ます。事実を見たときに、その儀式は単なる殺生なのです。悪業をつくったのです。これは地球が丸というのと同じくらいはっきりした事実です。

このように、意味のない・根拠のない戒め・儀式に執着する事を戒禁取といいます。

まとめ

さて、預流道で取り除かれる3つの煩悩を見てきました。
  • 有身見
  • 戒禁取
これらは三結とも呼ばれています。

結とは結生の意味で、次に生をつくる原因になる煩悩という意味です。

そして、これらをまとめると、

事実をすみずみまで確認してから判断しなさいよ。

という事になるのではないでしょうか。
(私の勝手な判断ですが)

例えば、100個の玉が入った箱があります。その箱には手を入れる穴だけがあって中は見えません。

あなたは、その穴に手を入れて、3つ玉を取り出しました。その玉の色はぜんぶ赤でした。

そのときあなたはどう思いますか?

ああこの箱には100個の赤い玉が入っているんだ

と思いませんか?

慎重な人だったら50個くらい調べて判断します。

でも、仏教はそれでもダメだと言います。

仏教は

すべての玉をきちんとすみずみ調べなさい!
そうしないと真実は分かりませんよ!

と言うんですね。これも理性的に見るとあたり前ですね。