例えば、火をイメージしてください。
何か燃えているとき、そこに”火”という変わらないものがあるわけではありません。
火がモノを燃やし、その時に出た熱がまた次の火をつくり、それが繰り返されているわけです。
前の火は、次の火に熱のエネルギーを受け渡して消えます。そのエネルギーの受け渡しの連続した現象を”火”というわけです。
同じように、心もエネルギーを、次の心に渡しながら、消えたり生れたりを激しく繰り返しています。
この流れは、体が滅んでも消える事はありません。またすぐに別の物体に依存して、生命体が生まれます。(輪廻転生)
今、あなたが生きています。
あなたの身体は生まれてから何十年かたっているかもしれません。でも、そのはるか昔から心のエネルギーは続いてきました。
それが、今生で今の肉体に依存して、あなたという生命が生まれたのです。
このようにエネルギーは続いていますから、昔やったことにふさわしい結果を将来受け取る事になります。
それを異熟といいます。
あなたが今感じている事は、以前の行いの結果というわけですね。
そして、昔不善心をつくった結果、今感じている心があるとすれば、それを不善異熟心といいます。
不善異熟心は7つあります。
- 捨倶、眼識
- 捨倶、耳識
- 捨倶、鼻識
- 捨倶、舌識
- 苦倶、身識
- 捨倶、領受心
- 捨倶、推度心
捨倶・眼識など
過去に不善心(よくない心)をつくった結果として生まれる、対象を見る瞬間の心が不善異熟心・捨倶・眼識です。倶とは感覚の事です。
ですから、捨倶とは、苦しみも楽しみもない感覚だと思ってください。
ちなみに喜倶と言えばうれしい感覚。苦倶と言えば苦しい感覚の事です。
なぜ捨倶かというと、何かを見た瞬間は、まだいいとか悪いとか感じていないからです。
例えば生ゴミを見て汚いと思う流れを見てみましょう。
- 生ゴミを見る(不善異熟心、捨具、眼識)
- これは生ゴミだと理解する
- 生ゴミは汚いというイメージが膨らむ
- 実際に辛くなる
見た瞬間は、まだ汚いとか辛いとかいう気持ちは生まれていませんね。
ちなみに眼識がないと、私たちはものを見る事ができません。まずは、ものを見るとき『何か見た!』という認識からスタートするからです。
同じように、過去に不善心(よくない心)をつくった結果として、
- 聞きたくないものを聞く瞬間の心を、不善異熟心・捨具・耳識
- 嗅ぎたくないものを嗅ぐ瞬間の心を、不善異熟心・捨具・鼻識
- 味わいたくないものを味わう瞬間の心を、不善異熟心・捨具・舌識
苦倶・身識
さて、次は不善異熟心・苦倶・身識です。身識だけ苦倶になっていますね。他は捨倶だったのに。
例えば、あなたが見たくないものを見たとします。でも、その瞬間は眼に映像が映っただけで、何の苦しみ(痛み)などもありません。
ですが、不善異熟心・身識の場合は、身体に触れたくないものが触れたときに生まれる心ですね。
こんなイメージです。
- 何かに刺された
- チクッと痛みを感じる(不善異熟心・苦倶・身識)
- 蜂に刺されたと思う
- 気が動転する
- 動転した心によって、感情的な苦しみが生まれる
痛みを感じたときまでは事実ですが、それ以降は自分の主観にすりかわっているのがポイントです。
この例の場合、チクッとした痛みが苦倶というわけですね。まあザックリと苦具とは痛みだと思ってもらっても構いません。
捨倶・領受心
領受心は対象を受け取るはたらきをしています。これは、ちょっと普通の感覚では理解しにくいかもしれませんね^^;分かりやすくするための例えがあります。
心の働きを人間に例えています。
- 人が柿の木の下で寝ている → 有分心
- 熟した柿がボトッと落ちる音がする → 対象が五門に現れる
- その人は音がしたので眼を覚ます → 五門引転心
- 落ちた柿に意識を向ける → 眼識(耳・鼻・舌・身)
- 柿に手をのばしてとる → 領受心
- 熟しているか調べる → 推度心
- 熟していると判断する → 確定心
- 食べる → 速行
- 口の中の柿を唾液と一緒に飲み込む → 被所縁
- また眠る → 有分心
科学的に言うと、例えば眼識は眼で生まれる『触れた』という感覚です。(アイコニックメモリ)
次にその情報を調べるために、情報を脳で受け取ります。その、脳で情報受け取るというはたらきが領受心のはたらきです。
単に受け取るだけのはたらきなので、喜びや苦しみをともないません。よって捨倶に分類されます。
これは推測ですが、現代脳科学では、五感からの情報は、まず視床という部分がキャッチすることが分かっています。なので、領受心も視床で生まれていると思われます。
捨倶・推度心
推度心は領受心が脳で受け取った情報に対して、『どんな情報だろう?』とその情報を調べるはたらきをします。もう一度、柿の木の例えを見てみましょう。
- 人が柿の木の下で寝ている → 有分心
- 熟した柿がボトッと落ちる音がする → 対象が五門に現れる
- その人は音がしたので眼を覚ます → 五門引転心
- 落ちた柿に意識を向ける → 眼識(耳・鼻・舌・身)
- 柿に手をのばしてとる → 領受心
- 熟しているか調べる → 推度心
- 熟していると判断する → 確定心
- 食べる → 速行
- 口の中の柿を唾液と一緒に飲み込む → 被所縁
- また眠る → 有分心
- これはどんな果物か?
- 食べれるのか食べれないのか?
- くさっていないかどうか?
まとめ
(無因)不善異熟心とは、以前つくった不善心の結果として生まれる心でした。不善心の結果として生まれる心なので、
- 見たくないものを見る瞬間の心
- 聞きたくないものを聞く瞬間の心
- 嗅ぎたくないものを嗅ぐ瞬間の心
- 味わいたくないものを味わう瞬間の心
- 触れたくないものに触れる瞬間の心
- そしてそれらの情報を受け取る心
- その後にそれらの情報を調べる心
ちなみに、見たくない・聞きたくないと言っているのは、個人的な好みの事を言っているわけではありません。
私たち生命体にとって好ましくないものという意味です。
例えば、生ゴミや便などの不衛生なものは生命にとって好ましくないので、好ましくないという決め方ですね。