- 身業・・・体でなす業
- 語業・・・言葉でなす業
- 意業・・・心でなす業
- 身業とはある特定の行いを体でなしたときの心に含まれる思心所
- 語業とはある特定の行いを言葉でなしたときの心に含まれる思心所
- 施・・・施す
- 戒・・・戒を守る
- 修習・・・瞑想修行する
身業
欲界善による身業は以下の3つです。- 離殺生・・・生き物を殺さないこと
- 離偸盗・・・与えられていないものを盗まないこと
- 離邪欲行・・・不倫をしないこと
語業
欲界善による語業は以下の4つです。- 離妄語
- 離離間語
- 離粗悪語
- 離綺語
意業
欲界善による意業は以下の3つです。- 離貪欲
- 離瞋恚
- 離邪見
福業事
福業事とは善業をつくる行いのことです。大きく分けて施・戒・修習の3グループ、計10の行いがあります。施
まず一つ目の福業事は施です。施とは「ほどこす」という意味ですから、まわりに利得になるものを与えるという意味が含まれています。施はさらに以下の3つに分類できます。施
物を施すことです。このとき業となるのは物を施すときの心に含まれる思心所で、さらに次の3つに分類できます。- 前思・・・施そうと考えてから施すまでに生じる思心所
- 譲渡思・・・施している最中に生じている思心所
- 後思・・・施した後に、思い返して喜びを感じるときに生じる思心所
廻向
善いことをすれば善業がつくられ、将来功徳を期待できます。この功徳を他の生命にも等しく分け与えたいと願って施す行為が廻向です。また、廻向する際に生じる心に含まれる思心所が廻向の業になります。随喜
他の人が廻向してくれた功徳を受け取って喜ぶことが随喜です。またこのとき生じる心に含まれる思心所が随喜の業になります。戒
二つ目の福業事は戒です。戒とは戒律を守るという意味で、簡単に言うと悪業を積まないように気を付けるという意味です。戒はさらに以下の3つに分類できます。持戒
五戒などの戒を守ることです。不善心が生じないように、身業、語業によく気を配ることです。また、このときの心に含まれる思心所が持戒の業になります。恭敬
徳の高い人や年長者に尊敬して接することです。何も利益を求めずに席を譲ったりするなどが恭敬です。また、このときの心に含まれる思心所が恭敬の業になります。作務
利益を求めずに他人の用事を手伝うことです。打算のない純粋なボランティアなどが作務に分類されます。また、このときの心に含まれる思心所が作務の業になります。修習
三つ目の福業事が修習です。修習とは、心を成長させるために瞑想修行にはげむことです。修習はさらに以下の4つに分類できます。修習
サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想の修行にはげむことです。修行以外にも仏典を学ぶなど世の中の利得となる知識を勉強する場合も修習に分類されます。また、このときの心に含まれる思心所が修習の業になります。門法
仏法やためになる教えを打算なく聞くことです。また、このときの心に含まれる思心所が門法の業になります。ちなみに打算的に「あの人、人の話をきちんと聞いてすごいな~と思われたい」なんて思いがある場合は門法になりません。説法
仏法やためになる教えを打算なく説くことです。また、このときの心に含まれる思心所が説法の業になります。ちなみに打算的に、「お金をもらえるから説こう」とか「人に尊敬されたいから説こう」などという思いがある場合は説法になりません。
見直業
正見、つまり正しい信念をもつことです。例えば、仮に有身見が遮断できないにしても、非有見・無因見・非作業見などに従わず、世の中を観察することで業があることをそれなりに確認できるわけですね。
そうすると、智慧が高まり、業のはたらきを信じれるようになります。このときの心に含まれる思心所が見直業になります。見直業は、正見つまり慧に関わる業なので、見直業を含む心は必ず智相応大善心になります。
欲界善業による異熟処
欲界善業は全て合わせると以下の8種類あります。- 大善心・喜倶・智相応・無行に相応する思心所
- 大善心・喜倶・智相応・有行に相応する思心所
- 大善心・捨倶・智相応・無行に相応する思心所
- 大善心・捨倶・智相応・有行に相応する思心所
- 大善心・喜倶・智不相応・無行に相応する思心所
- 大善心・喜倶・智不相応・有行に相応する思心所
- 大善心・捨倶・智不相応・無行に相応する思心所
- 大善心・捨倶・智不相応・有行に相応する思心所
結生異熟をもたらすとき
欲界善趣地のみに結生心として大異熟心8を生じさせます。生起異熟をもたらすとき
欲界善趣地にのみ、彼所縁などのはたらきをする大異熟心8を生じさせます。また、すべての欲界地、色界地において無因善異熟心8を適宜生じさせます。三因の勝などによる分類
欲界の善い心である大善心と言います。その大善心の前後に生じた心によって、囲まれた大善心も影響をうけます。この事について以下のようなパターンが考えられます。三因の勝善
まず、三因とは智相応の大善心4のことです。智慧をともなった善い心ですね。この三因大善心の前後を、大善心で囲んだ場合、囲まれた三因大善心はさらに勝れた善心になります。このときの大善心を三因の勝善と言います。例えば、お布施をするときに、お布施する前から喜びの心が生じ、お布施し終わった後も喜びの心に満ちている状態などですね。
三因の勝善は、結生異熟として智相応大異熟心4(三因)をもたらします。また、生起異熟として大異熟心8、無因異熟心8の計16をもたらします。
三因の劣善
三因大善心の前後を、不善心で囲んだ場合、囲まれた三因大善心は劣った善心になります。このときの大善心を三因の劣善と言います。例えば、お布施をすることは功徳があると理解はしているものの、何か乗り気がしなくてしぶしぶお布施し、お布施し終わった後も後悔している状態などですね。
三因の劣善は、結生異熟として智不相応大異熟心4(二因)をもたらします。また、生起異熟として智相応を除いた大異熟心4、無因異熟心8の計12をもたらします。
二因の勝善
二因とは智不相応の大善心4のことです。智慧をともなっていない善い心ですね。二因大善心の前後を、大善心で囲んだ場合、囲まれた二因大善心は勝れた善心になります。このときの大善心を二因の勝善と言います。例えば、お布施がどのような行為かをよく分かっていない子供が、親の見よう見まねで喜んでお布施し、お布施し終わった後も大善心が生まれている状態ですね。
二因の勝善も三因の劣善と同じく、結生異熟として智不相応大異熟心4(二因)をもたらします。また、生起異熟として智相応を除いた大異熟心4、無因異熟心8の計12をもたらします。
二因の劣善
二因大善心の前後を、不善心で囲んだ場合、囲まれた二因大善心は劣った善心になります。このときの大善心を二因の劣善と言います。二因の劣善は、結生異熟として生来盲目の人や堕処の阿修羅に捨俱推度結生心を生じさせます。また、生起異熟として無因異熟心8のみをもたらします。