ですから、
- 共一切心心所とは、ぜんぶの心に共通して含まれる心所
- 共不善心所とは、ぜんぶの不善心に共通して含まれる心所
- 共浄心所とは、ぜんぶの浄心(善心)に共通して含まれる心所
信(しん)
信とは、事実を確信する事です。
例えば、あなたが熱いヤカンで火傷したとします。
後日、別の人から、『ふっとうした熱いヤカンを火傷しますか?』と聞かれたら、自信満々で『します!』と答えるでしょう。
このように、しっかりした根拠があって信じる事が『信』です。
ここで似た言葉に信仰があります。
別の宗教でよく登場する言葉ですが、これは仏教の信とは意味が全然違います。というのも、信仰は根拠なく信じる事が前提となっています。
神を信仰するという場合も
- 神という存在の根拠は何か?
- 神はなぜ自分で作った人間に罰を与えるのか?
- そして、なぜ罰を与えなくていいように有能につくらなかったのか?
など、根拠を追求する事は神への冒とくとして、ご法度になっています。裏を返せば根拠があいまいなのです。
信とはあきらかな事実を確信すること。それはたいてい体験に基づいています。
あなたが車で時速60kmで走ったことがあるなら、『車は時速60kmで走れる』という事を確信するはずです。このように、根拠に基づいた確信が信です。
念(ねん)
念とは現実に気づくことです。
例えば、あなたが待ち合わせに遅刻しそうであわてて運転していたとします。
『ああ、早く行かないと。後でメチャクチャ怒られるだろうな~・・・』
なんて考えていると、すぐ目の前に車が!!
間一髪、ブレーキを踏んで助かります。
この例で行くと、ブレーキを踏む前に生まれたものが気づきです。
最初考え事をしていたときは、まわりが全然見えていなかったわけです。つまり、気づきがなかったわけですね。
この例は人ごとではありません。というのも私たちは一日の大半を、ほとんど自動反応のように過ごしています。
ですから、今その瞬間に何をしているのか実はほとんど理解していません。
心理学ではこの状態を無意識とも呼んだりしますが。私たちはこの無意識に支配されて生きています。
だから失敗するときも自覚なく失敗するんですね。そもそも自覚があれば失敗を避けるでしょうが。
- 何となく忘れ物して
- 何となく人を傷つけて
- 何となく足を動かして目的地へ行きます
これが気づきがない状態です。
もし瞬間瞬間の現実に気づいていたなら、現実に対してとても鋭い理解が生まれます。
これが悟りの瞑想であるヴィパッサナー瞑想の考え方です。ヴィパッサナー瞑想では念が基本となっています。
慚(ざん)
慚とは悪い行為を恥ずかしく思うという意味です。
『こんな事やっちゃ人として恥ずかしいよね!』って感じる事ですね。行為をする前の心です。
実際に悪行為をした後に人にばれて恥ずかしく思うのは、瞋根心のはたらきになります。その状況に怒りを感じるわけですから。
不善心所の無慚と、真逆の心所になります。
愧(き)
愧とは悪い行為をする事を恐ろしく思うという意味です。
仏教では因果法則を説いていますので、悪行為は何らかの形で必ず自分が受け取ることになります。
- 人から悪口を言われることなのか
- 大怪我をすることなのか
- 大切なものを失うことなのか
- 地獄に生まれ変わることなのか
詳しくは、我々凡人には分かりませんが、いずれにしても割に合わない事は分かりますね。
因果法則を理解している人は、悪行為は多くの苦しみを後に受け取ることになり、恐ろしいとよく理解しています。
無貪とはものごとに執着しないという意味ですね。
一般的な言い方をすると、『手放す』とか『与える』という表現がしっくりくるかもしれません。
私たちは欠乏感があるとき人に分け与える事はできません。逆に私たちが計算なく人に与えるときは満足感をともなっています。
すでに自分の心は満たされていますから、人から見返りがあってもなくても、どっちでもいいわけですね。
もちろん物質的に満たされているかどうかはあまり関係ありません。自分の気持ちしだいで、今すぐにでも無貪をつくれます。
しかし、厳密に言うと無貪とはものごとに執着しない事すべてを包括しています。ですから、『手放す』とか『与える』とかよりももっと広い意味があります。
無瞋(むしん)
無瞋とは怒りがないことです。瞋の逆ですね。
これは言いかえると、慈しみのことです。もっと一般的な言い方だと、思いやり、とか優しさという意味が近いでしょう。
無瞋とは怒りがない状態すべてを包括しています。
ですから、ちょっとでも怒りが現れたら即アウト!
分かりやすいですね^^;
中捨(ちゅうしゃ)
中捨とは、対象に対して心を中立を保つ性質です。
私たちは、何かを見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりしたときは、それによって心が偏ってしまいがちです。
例えば、
- この花すごくキレイ
- 何か騒音がうるさいな!
- さっきから変な匂いしない!?
- わあこれおいしい
- この感触気持ちいいよね
みたいな感じで、対象に対して心が偏るわけです。心が偏った時、こっちはOK・こっちはNGみたいな価値の優劣が生まれます。
もしそのような偏りがなくなったとき、私たちの心は平等というか平静な状態になります。
まるで、湖の水がどの方向にも波打つ事なく、ビシッと静止している状態ですね。湖面に波は一つもありません。
分かりやすく言うと、自分の勝手な価値基準で、世界を判断しないということです。
身軽安、心軽安
身というと体をイメージしそうですが、ここでは違う意味で使っています。
ここでいう身は心所の集まりという意味です。つまり、身軽安とは心所の集まりを安らかにするという意味になります。
また、同じように心軽安とは心を安らかにするという意味ですね。
復習ですが
- 心とは水に例えられます。(溶媒)1
- 心所とは溶けるものに例えられます。(溶質)52
- 心に心所がまざって、不善心や善心ができます。(溶液)89
つまり、純粋な心とは1種類なのです。心所が52種類あります。
もう少し深く知りたい人のために
仏教では生命を5つの要素に分けています。
すなわち
- 色蘊・・・物質のこと
- 受蘊・・・受心所のこと
- 想蘊・・・想心所のこと
- 行蘊・・・受と想をのぞく残り50心所のこと
- 識蘊・・・心所がとけてできた89種類の心のこと(溶液)
簡単に言うと、
1は物質で、2~4は52心所で、5は心(溶液)と考えられます。
ここでいう身とは、受蘊、想蘊、行蘊を意味しています。また心とは識蘊、つまり心所がとけてできた89種類の心をさしています。
身軽快性、心軽快性
軽快性とは、軽さという意味ですね。そのまんまです^^;
- 身軽快性とは心所が軽くなる性質という意味です。
- 心軽快性とは心が軽くなる性質という意味です。
すなわち、
- 体が軽く感じたときは身軽快性のはたらきによる
- 心が軽く感じたときは心軽快性のはたらきによる
身柔軟性、心柔軟性
柔軟性とは、柔らかさという意味ですね。
- 身柔軟性とは心所が柔らかくなる性質という意味です。
- 心柔軟性とは心が柔らかくなる性質という意味です。
では逆に柔らかくない状況をイメージしてみましょう。
それは、例えば
- 自分こそは偉いんだ
- 自分こそ特別な存在なんだ
という思い込みがあるときですね。こういうとき私たちは人の意見を聞こうともしませんし、かたくなに自分の意見に固執します。
もし『自分こそは』という思い込みがなければ、自然とまわりと同調するわけです。まるで柔らかい布がふわっと包み込むように。
身適業性、心適業性
適業性とは、はたらきに適している意味ですね。
- 身適業性とは心所が心所のはたらきに適しているという意味です。
- 心適業性とは心が心のはたらきに適しているという意味です。
身練達性、心練達性
練達性とは、洗練され整えられている意味ですね。
- 身練達性とは心所が洗練され整えられているという意味です。
- 心練達性とは心が洗練され整えられているという意味です。
身端直性、心端直性
端直性とは、真っすぐであるという意味ですね。
- 身端直性とは心所が真っすぐであるという意味です。
- 心端直性とは心が真っすぐであるという意味です。
まとめ
共浄心所は次の19です。
- 信
- 念
- 慚
- 愧
- 無貪
- 無瞋
- 中捨
- 身軽安
- 心軽安
- 身軽快性
- 心軽快性
- 身適業性
- 心適業性
- 身練達性
- 心練達性
- 身端直性
- 心端直性
説明の都合上バラバラに見てきましたが、実際はこれらは善心が生まれると同時に含まれているものです。ですから、バラバラで理解することには正直ムリがあります。
特に『身○○、心○○』のタイプは、『こんな性質をもった心所なんだ』くらいに理解しておいてください。