例えるなら、絶対に芽を出さない生命力が弱い種みたいなイメージですね。
実がなって、それがまた種になって・・・
みたいな循環は起こせない弱い心のことです。
唯作心も、無因唯作心と大唯作心の2種類あるので、”無因”をつけて区別します。
この無因唯作心は3つあります。
- 捨倶・五門引転心
- 捨倶・意門引転心
- 喜倶・笑起心
捨倶・五門引転心
まず用語の説明から。五門とは、5つの情報の入り口という意味です。情報が入るのはどこでしたか?
そうですね。五感(感覚器)です。
例えば、あなたが何か『見た』というとき、まずは対象が眼に触れるところからスタートします。そして、触れた瞬間に眼識が生まれる事は学びましたね。
もし、眼識が生まれなければ、有分心という潜在的な心が流れ続けることになるのですが、眼識が生まれるためには有分心の流れを一旦止めて眼識の流れに切り替える必要があります。
なぜなら、心はその一瞬に一つずつしか生まれない性質があるからです。
このように切り替えるはたらきを引転といいます。
線路のポイント切り替えで、電車の進む方向を切り替えるようなイメージですね。
そして潜在的な有分心の流れを、顕在的な五感による心の流れに切り替える心が五門引転心です。
おなじみ、柿の木の例えを見てみましょう。
- 人が柿の木の下で寝ている → 有分心
- 熟した柿がボトッと落ちる音がする → 対象が五門に現れる
- その人は音がしたので眼を覚ます → 五門引転心
- 落ちた柿に意識を向ける → 眼識(耳・鼻・舌・身)
- 柿に手をのばしてとる → 領受心
- 熟しているか調べる → 推度心
- 熟していると判断する → 確定心
- 食べる → 速行
- 口の中の柿を唾液と一緒に飲み込む → 被所縁
- また眠る → 有分心
もちろん、これは私たちには自覚できないほんの些細な心なので、喜びも苦しみもともないません。よって、捨倶となります。
捨倶・意門引転心
これも引転心です。五門引転心と同じように、仏教では心にも門があると解説します。この、心の門を意門といいます。ちなみに意門とは有分心のことです。
例えば、妄想してイライラする場合、五感からは何も情報は入ってきていません。この場合、イメージ(法)が意門に触れて、イライラが生じると解釈されます。
つまり、意門引転心とは、潜在的な心の流れである有分心の流れを止めて、意識を生起させるはたらきをする心です。
このように、五感からの情報以外の門(つまり意門)からの情報で、意識が生起するときに意門引転心が活躍します。
笑起心(しょうきしん)
笑起心とは最高まで悟った人が笑うときの心です。そもそも悟りとは、完全に不善心(悪い心)を0にした状態のことです。
不善心がないとは、欲や怒りが全くないという事です。自分とまわりの人や他の生き物との区別もなく、みんな平等な生命体の一つと見えます。
もちろんそんな心理状態をつくるには、厳しいトレーニングを続けなければいけません。金メダルをとるために何年も筋トレにはげむのと同じことです。
では、あなたと金メダリストの体は同じでしょうか??
もし、同じだと感じたとしたら、あなたも金メダリストではないですか?^^
たいていは、全く違います。なぜなら彼らは特別なトレーニングをしてきたからです。
同じように、一般の人と悟った人の心理状態もまったく違います。彼らが笑うとき、一般の人のように欲の心境で笑ったしません。
彼らは笑起心という心で笑うのです。
まとめ
無因唯作心は、はたらきだけがあって結果を生まない弱い心でした。無因唯作心は以下の3つです。
- 五門引転心・・・五感で情報を受け取る前に準備する心
- 意門引転心・・・脳で情報を受け取る前に準備する心
- 笑起心・・・悟った人が笑うときの心
笑起心は悟らないと確認できませんが、他2つは一般の人にも現れる心です。でも、エネルギーが弱い心なので、私たちは普段感じる事ができません。
たぶん、医療機器とかで調べたら、何かしら信号を見つけられると思いますが^^;