痴とは無知という意味で、簡単に言うと、頭が働いていない状態をさします。
普通は、無知というと心の分類っぽくないですが、仏教ではこれも大切な分類の一つです。
なぜなら、
- 人は無知だから誤解する
- 誤解するから苦しみを喜びと思う
- 苦しみを喜びと思うから、実際に苦しむ
ワケもなくなんとなくやってしまうようなイメージですかね。
痴根心は2つあります。
疑相応
痴根心の一つ目は疑相応です。相応というのはともなっているという意味です。ですから、疑相応というのは疑いをともなっているという意味になりますね。痴根心、疑相応とは、はっきりした根拠もなく、何となく疑っている状態の事をさします。
たとえば、石には心はありませんね?
だって、石は「踏まれて痛い」とか、「今日は晴れてて気持ちいいな」とか思わないからです。
それは、明らかな事実ですが、そう聞いても「本当かな?実は石の中にも小さい養成みたいなのがいて・・・」とか、事実を疑った場合、疑相応ということになります。
何でも信じればいいわけでもないですよ!
ちゃんと事実を事実として理解するのは知恵です。事実じゃないものを事実じゃないと理解するのも知恵です。
一方で、事実を「事実じゃないんじゃないか?」と疑うのが疑相応です。
掉挙(じょうこ)相応
痴根心2つめは掉挙(じょうこ)相応心です。掉挙(じょうこ)とは、心が浮ついている状態のことです。現代風に言うと、混乱とか焦りとかいうイメージでしょうか。
焦ってると目の前に探し物があるのに、気づかないという事がありますね。
このように事実がはっきり分からないという意味で、掉挙(じょうこ)相応心も痴根心の仲間になるわけです。
まとめ
痴根心の主な性質は無知です。ものごとを正確に理解できないという意味ですね。そこには2種類ありました。
疑相応
根拠もなく何となく疑う心。掉挙(じょうこ)相応
混乱・焦りで事実を正確に理解できない。どちらも、ものごとを正確に理解できない、つまり無知が関係しているのがよく分かりますね。