色界心をつくるためには、色界禅定に入る必要があります。色界禅定に入るためには、サマタ瞑想と言われる瞑想が必要になります。
この瞑想は分かりやすくいうと集中の瞑想ですね。何か一つのもの、に集中するわけですね。
例えば、真っ白の紙に茶色の丸を書いて、その丸をじっと見つめるとかですね。
そして、5つの禅支
- 尋
- 伺
- 喜
- 楽
- 一境性
そして、レベルが上がるごとに禅支が減っていき、第五禅定では一境性だけがのこります。(厳密に言うと楽が消えて、捨の感覚が残ります)
第五禅定はとてもレベルの高い禅定なのですが、それでも対象の物質に依存しているわけですね。
つまり、『ある』ものを対象にした瞑想から、『ない』ものを対象にした瞑想に切り替わるわけです。そこから無色界禅定がはじまります。
空無辺所
空とは何もない空間という意味です。無辺とは限りがないという意味です。色界禅定に入るためには、ある対象の物質に集中して瞑想する必要がありました。
そこから、無色界善心の一段階目である空無辺所に入るためには、その瞑想対象をはずすという事をします。
はずすと後に残るものは空とういわけですね。その空に対して、さらに瞑想することで空無辺所に入ります。
あまりに一般の認識世界とかけ離れているので、分かりづらいですね^^;
今すぐは必要ない知識かも知れませんが、経典にあるので一応説明しておきます。
識無辺所
識無辺処の- 識とは心のこと
- 無辺とは限りがないこと
- 処とは状態のこと
心が限りなく広がっている状態というような意味でしょうか。
物質が何もない状態、空を対象にして瞑想して到達する状態が無色界善心・空無辺処でした。
次に、空無辺処という状態を対象にして瞑想する事で、識無辺処の禅定に入る事ができます。
無所有処
無処有とは何もないという意味です。空無辺所のところでも何もないという意味が出てきましたね。
色界善心を起こすには、何か一つの対象、例えば茶色く塗られた丸に心を集中さあせていく瞑想を行います。
言い換えると何か一つの物質(色)を対象として色界善心が生まれます。
そして、その瞑想対象の物質(色)を取り払った状態(空)を対象に瞑想すると、空無辺所という無色界のレベルに達します。
つまり、空無辺処はもともと物質(色)がある事を前提として生まれているわけです。
無所有処は、そういう前提とか抜きにして、本当に何もない状態を意味しています。
非想非非想処
無色界善心の最高のステージが非想非非想処です。名前もすごいですね^^;
この意味は、心があるでもなくないでもないという意味です。
心があるという事は、生きている事を意味します。
心がないという事は、死んでいる事を意味します。
非想非非想処に達している人は、生きているとも死んでいるとも言えない状態の心が流れている事になります。